上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
 秋風が吹き始めると月の輝きが冴えてきます。

満月に映しだされた影絵のような文様を、中国や日本では兎の姿になぞらえましたが、

南ヨーロッパでは蟹に見立てるとか。

再生の象徴ともとらえられる脱皮をくりかえして成長し、

月の周期に合わせて幼生を放出するという生態からか、蟹には洋の東西を問わず、

神秘的な霊性を感じさせる伝説や習俗がしばしばみられます。

日本では、社寺の縁起や、厄除けの風習、出産にまつわる故事などに蟹が登場します。

水没した平家の霊が蟹に憑依したとする平家蟹の伝承や、

子蟹たちが親蟹の仇討ちをはたす猿蟹合戦がよくしられていますが、

これには甲羅をまとう蟹の姿が甲冑を身につけた武士を思わせる、

ということも影響しているのでしょう。

工芸意匠としても尚武的な意味合いで武家に好まれたのか、室町時代末期以降、

刀の鍔などの金工品や武家伝来の染織品に優れた作例をみることができます。


01.jpg


 さて、生物学的にも造形的にも類縁のエビについてはどうでしょう。

脱皮をくりかえして成長し、甲冑を思わせる殻に覆われている点は蟹と同様ですが、

エビの場合は腹が自由に曲がり長い触覚をもつという特徴が、

腰のまがったヒゲの長い老人を連想させることから、長寿の象徴とみなされたようです。

「海老」という宛字は中国にはありませんが、日本では平安時代の『延喜式』や

『倭名類聚集』以来用いられている古いものです。

なお現在、クルマエビ類やコエビ類には「蝦」の字をあて、

イセエビ類には「海老」の字をあてるのが一般的です。

正月の縁起物や、祝宴の食材として伊勢海老を用いるのは、

室町時代後期ごろに成立し江戸時代初頭ころには定着した慣習とみられています。

工芸意匠としても伊勢海老を配した大胆な作例を江戸時代の

金工品や染織品に見いだせます。



 中国においてエビは、力強くはねることから、物事が順調にすすむという

吉祥のモチーフでした。

そのため有田のやきもののモデルとなった明時代末期の中国磁器に

エビを描いたものがあったのでしょう、

出土した初期伊万里にもエビを描いた作例を見出すことができます。

ただしその姿は伊勢海老というよりはテナガエビ。

ほっそりとした腹部は弧を描き、勢い良く水中をはね泳ぐ姿を、

染付の筆致が軽やかに表現した蝦の文様です。


「文・吉田さち子(学芸員)」


02.jpg
スポンサーサイト
2012.10.02 / Top↑
大地を潤し草木を育む雨。実りをもたらす一方で、

時として災害をひきおこす雨。

日本は年間を通じて雨の多い国として知られています。

人々は四季折々の雨をさまざまな言葉で情感ゆたかに表現し、

畏敬の念さえ感じながらも親しんできました。


絵画や工芸意匠にも、雨は表現されました。

平安時代後期の作とされる「仏功徳蒔絵経箱(ぶつくどくまきえきょうばこ)」には、

瑞雲(ずいうん)から慈雨(じう)が草木に降り注ぐさまがあらわされています。

江戸時代には酒井抱一の「夏秋草図屏風」や広重の

「江戸名所百景 大はしあたけの夕立」など、

雨の風情が美しい名品も知られています。

ところが、やきものの意匠に雨をさがしてみてもなかなか見当たりません。

強いて縁深いモチーフをさがしたならば

「雨龍(あまりょう・あめりゅう)」でしょうか。


雨龍とは、中国の想像上の動物である龍の一種「蜘龍(ちりゅう)」のことです。

龍は蛇やトカゲといった爬虫類の仲間と認識されており

さまざまな種類が想定されていました。

いまだ龍になりきっていない中間的な存在として考えられた下級の龍のひとつが蜘龍です。

その姿については諸説ありますが、角がない、ということが異論のない特徴です。


明時代末の磁器によく描かれていた影響で、雨龍は有田のやきものにも

ごく初期からみることができます。

出土した初期伊万里の作例に描かれた雨龍は、

角のないどこかユーモラスな表情の、トカゲのような龍。

軽やかに身をくねらせて弧をえがいています。


染織品や家紋にとりいれられた雨龍は、

より略画的にデフォルメされていることが多く、

シャモジのような頭部にタテガミが豊かに生え、

小さく丸い黒点の目が添えられています。

太筆で一筋に書いたかのような胴体からは、

雲か波涛ともみえる脚や尾が枝分かれしています。


雨をつかさどる水霊としての霊力は各種の龍に共通する特性といえるのでしょうが、

日本において下級の?龍がことさらに雨の文字をあてられ親しまれたのは、

こうしたどこか愛らしく親しみの感じられる造形によるところもあったかもしれません。


さて一方で、堂々たる龍の意匠もまた、

中国から日本に渡来し絵画・工芸に広く用いられました。

古代中国では、龍のイメージが完成されたと考えられる秦・漢時代には

すでに王権と龍とが結び付けられ、龍はいっそう聖性と威厳を増しました。

皇帝の衣服に縫い取られる吉祥の文様「十二章」では最も重要な文様として

龍があげられています。

麒麟・鳳凰・亀とともに霊獣として「四霊」に数えられ、

南の朱雀・西の白虎・北の玄武とともに四方の守護神「四神」として

東をつかさどる青龍となりました。

日本で「えと」といわれる「干支(かんし)」すなわち

「十干十二支(じゅっかんじゅうにし)」の「十二支」には、

辰として架空の動物で唯一加えられます。

日本でも、飛鳥時代の高松塚古墳に「四神」のひとつとして

東方の壁に青龍が描かれています。

奈良時代から江戸時代末にいたるまで、天皇が即位の儀式で身に着ける

中国風の正装「礼服(らいふく)」には、

龍をはじめとする「十二章」が刺繍で表現されました。

さらにインドから中国へと仏教がもたらされるとき、

仏法の守護神である蛇の神ナーガが「龍王」と訳され、

中国古来の龍と習合して表現されるようになりました。

その結果日本にも、仏教美術としての龍の意匠が渡来します。

禅宗寺院で天井から睨みをきかせる雲龍図、迫力ある龍虎の水墨画。

あるいは12年に一度めぐってくる辰年の龍。

現代においては雨龍よりも龍の意匠のほうが目にする機会が多いかもしれません。


「文・吉田さち子(学芸員)」


雨龍・龍
2012.06.18 / Top↑
桜のたよりがきこえると誰しも心浮き立つものです。

日本の春の象徴ともいわれる桜はじつに古くから親しまれてきました。

「古事記(こじき)」に登場する「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」の

コノハナは桜を指すといわれますし、「万葉集(まんようしゅう)」にも桜はうたわれています。

とはいえ、中国文化の影響が色濃かった時代には、文学においても工芸においても、

中国で好まれた梅のほうがより多く題材とされていました。

平安時代、内裏(だいり)南殿(なんでん)の庭に橘と対にして植えられたのも梅でした。

梅が桜にかえられて、雛飾りでおなじみの「左近の桜、右近の橘」となったのは、

天徳四年(960)の火災のあと。

すでに遣唐使は廃止され、日本独自の風情や伝統が探求されて、

国風(こくふう)文化(ぶんか)が花ひらいた頃のことです。

左近の桜がほころぶと、宮中では観桜(かんおう)の宴が開かれました。

王朝文学「源氏物語」のうち「花宴(はなのえん)」で語られる源氏と

朧(おぼろ)月夜(づきよ)の出会いもまた、

その観桜(かんおう)の宴の夜の出来事でした。


やがて「花」といえば桜をさすようになり、文学にも工芸意匠にも

桜は頻繁に用いられるようになります。

特に水に散り浮く花弁の風情が好まれたのか、桜の文様には流水がよくとりあわされます。

また、流れに寄せられ集まった花弁を筏(いかだ)にみたて

「花(はな)筏(いかだ)」と呼んだことから、木製の筏(いかだ)を

桜とともにあしらう文様もあります。

豊臣秀吉が歴史に名高い吉野の花見(1594)・醍醐の花見(1598)を行った頃からは、

桜はにぎやかな宴・行楽がつきものの風流として愛好されるようになり、

江戸時代には庶民まで幅広く花見を楽しみました。

桜の文様もさらに身近に親しまれたことでしょう。


有田のやきものがはじまったのは17世紀のこと。

しかし初期伊万里の姿を伝える出土品には桜の文様はほんのわずかしか見出せません。

当時は輸入品の中国磁器が珍重され、有田のやきものはそのデザインを

模して供給不足を補っていたからです。

1640年代、中国王朝の交代に伴う内乱から磁器の輸出がストップすると、

有田のやきものは国内市場をおさえ急速に発展しました。

技術も磨かれ、ほどなくヨーロッパにまで輸出されるようになります。

こうして急発展した17世紀後半以降、桜の文様は数多くの器を彩るようになります。

つまりはその頃から、有田のやきものにおいても「国風(くにぶり)」が

好まれるようになったということなのでしょう。


「文・吉田さち子(学芸員)」

桜の文様

桜の文様

桜の文様

2012.03.19 / Top↑
梅の原産地は中国です。

薬木として日本に渡来し奈良時代以前からすでに植栽されていました。

貴族の邸宅などで賞翫され、中国文学にならって詩歌(和歌・漢詩)の

題材とされました。

唐風文化の時代にはただ「花」といえば梅をさすほどに、梅は花の代表格でした。

平安時代中・後期に国風文化が興ってからは桜にその座を

ゆずった感がありますが、早春の香り高い花としてその後も愛され続け、

文学・美術の題材として日本ならではの梅のイメージが育まれていきました。

梅をめぐる逸話は数多くありますが、「鶯宿梅(おうしゅくばい)」

(御所の梅が枯れ天皇が某家の庭の紅梅を移植しようとしたところ、

女主人が鶯の宿がなくなるのを憂う和歌を献上し移植を免れた)や、

「飛梅(とびうめ)」(菅原道真が大宰府左遷のとき庭の梅に別れを

惜しむ和歌を詠み、その梅がのちに主を慕って九州に飛来した)の

話はことに有名です。



絵画や工芸の意匠において古くから梅と取り合わされたモチーフといえば、

まずは「鶯」、そして「月」「流水」が目立ちます。

花を愛でるのに「姿は桜、芳香は梅」が随一とよくいわれますが、

満月や三日月の光のもと花開く梅の図案は、夜風にただよう妖艶な香りを

イメージさせます。

梅の木の根元に、あるいは梅花を浮かべて流れる水の図案は、

雪解けとともに訪れた春を象徴するのでしょうか、水ぬるむ陽だまりの

空気を感じさせます。

汀にうちよせる波間に梅花をちらした「梅汀文(うめなぎさもん)」も、

同様にのどかな雰囲気です。

一方で対照的なのは、幾何学的にひろがる氷の裂け目のうえに梅花を散らす

「氷裂梅花文(ひょうれつばいかもん)」です。

陽光は明るいものの春まだ浅い凛とした空気を思わせるこの文様は

中国・清の磁器によく見られ、

その影響で日本でも江戸時代後期のやきものに見出せるものですから、

より中国的なイメージの梅の文様といえるかもしれません。



梅といえば「松・竹・梅」のおめでたい図案も思い浮かびます。

中国の文人は梅を、蘭・竹・菊とともに「四君子(しくんし)」、

蘭・竹・蓮・菊とともに「五友(ごゆう)」に数え、

また松・竹、あるいは水仙・竹とともに

「歳寒三友(さいかんさんゆう)」と数えて、その風趣を尊び画題としました。

日本では松・竹・梅に鶴・亀を加えた図案が吉祥文様として広まり、

例えば江戸時代、武家の姫君の婚礼道具では、畳紙(たとう)や屏風などに

松・竹・梅・鶴・亀の図案が見られます。

ただし子どもの産着や祝い着においては散る花を忌み、梅が除かれる場合もありました。



有田のやきものにも古くからさまざまな梅の図案が描かれてきました。

鶯が梢にさえずる庭前の梅、吉祥の景物とともに八重に咲き誇る梅。

一枝を手折った折枝梅(おりえだうめ)に、五弁の小花のみを

愛らしく描いた梅花の文様。

いずれも早春の芳香がただよい来るようです。


「文・吉田さち子(学芸員)」
2012.01.30 / Top↑
 葡萄(ぶどう)は紀元前の昔から栽培され、地中海沿岸や西アジア・中央アジアなどで生食・醸造に

用いられていました。

中国へは漢の武帝の時代(紀元前141-前87在位)に、西域に遣わされた張騫(ちょうけん)が

もたらしたという説があります。

日本では、鎌倉時代の初めに甲斐国で中国渡来の種から栽培が始まりましたが広まらず、

17世紀にはいって棚作りでの栽培法が見出されてから発展しました。



 葡萄の文様も同様に、西域から中国、そして日本へともたらされました。

その時期は栽培法よりも早く、奈良時代初期の薬師寺金堂薬師如来像台座には、

西域の建築意匠をおもわせる葡萄唐草文を見出せます。

また正倉院には、東大寺大仏開眼供養(752年)や、聖武天皇一周忌斎会(757年)などに

用いられた多数の錦(にしき)や綾(あや)がのこされていますが、

錦では五種類ほど、綾では四種類の葡萄唐草文を見出すことができます。

中国渡来の技術とデザインとを吸収し、日本にも美麗な織物の生産機構が

ととのえられようとしていた時代のものです。

日本に自生する野の葡萄とはちがい大きな房にたわわに実る葡萄の文様は、

異国情緒を感じさせたことでしょう。

wine.jpg



 西域で、中国で、葡萄唐草文はときに鳥獣や昆虫、架空の霊獣、

あるいは神々や葡萄を収穫する童子などをとりまくようにデザインされました。

乾燥した土地ではみずみずしい葡萄も葡萄から醸されたワインも、水同様に命をつなぐもの。

各地域・時代での宗教的な意味をも含みつつ、葡萄の木は豊穣や楽園、生命力のシンボルとして、

象徴的な生き物や人物とともに描かれたのでしょう。

日本でも複数出土している中国・唐代の銅鏡、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)もその一例です。

葡萄唐草文とともに配された生き物は、天馬・麒麟(きりん)・龍・獅子・鳥・孔雀・蝶・蜂など多様です。



 葡萄と小動物、といえば、中国や日本の水墨画ではしばしば、葡萄と栗鼠(りす)がとりあわされます。

栗鼠は子をたくさん産む鼠(ねずみ)に通ずることから、実をたくさんつける葡萄とあわせて、

子孫繁栄・豊穣の吉祥文様として組み合わされたのでしょう。



 さて、古伊万里にみられる葡萄文は、緩急自在な筆遣いで飄々と蔓をのばしています。

中国・宋~元代の禅僧、日観(にっかん)のえがく水墨画の葡萄図は日本で

とくに好まれたといいますが、そういえば染付の濃淡はどこか水墨画の表情にも似ています。


「文・吉田さち子(学芸員)」


cs.jpg

2011.10.14 / Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。