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桜のたよりがきこえると誰しも心浮き立つものです。

日本の春の象徴ともいわれる桜はじつに古くから親しまれてきました。

「古事記(こじき)」に登場する「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」の

コノハナは桜を指すといわれますし、「万葉集(まんようしゅう)」にも桜はうたわれています。

とはいえ、中国文化の影響が色濃かった時代には、文学においても工芸においても、

中国で好まれた梅のほうがより多く題材とされていました。

平安時代、内裏(だいり)南殿(なんでん)の庭に橘と対にして植えられたのも梅でした。

梅が桜にかえられて、雛飾りでおなじみの「左近の桜、右近の橘」となったのは、

天徳四年(960)の火災のあと。

すでに遣唐使は廃止され、日本独自の風情や伝統が探求されて、

国風(こくふう)文化(ぶんか)が花ひらいた頃のことです。

左近の桜がほころぶと、宮中では観桜(かんおう)の宴が開かれました。

王朝文学「源氏物語」のうち「花宴(はなのえん)」で語られる源氏と

朧(おぼろ)月夜(づきよ)の出会いもまた、

その観桜(かんおう)の宴の夜の出来事でした。


やがて「花」といえば桜をさすようになり、文学にも工芸意匠にも

桜は頻繁に用いられるようになります。

特に水に散り浮く花弁の風情が好まれたのか、桜の文様には流水がよくとりあわされます。

また、流れに寄せられ集まった花弁を筏(いかだ)にみたて

「花(はな)筏(いかだ)」と呼んだことから、木製の筏(いかだ)を

桜とともにあしらう文様もあります。

豊臣秀吉が歴史に名高い吉野の花見(1594)・醍醐の花見(1598)を行った頃からは、

桜はにぎやかな宴・行楽がつきものの風流として愛好されるようになり、

江戸時代には庶民まで幅広く花見を楽しみました。

桜の文様もさらに身近に親しまれたことでしょう。


有田のやきものがはじまったのは17世紀のこと。

しかし初期伊万里の姿を伝える出土品には桜の文様はほんのわずかしか見出せません。

当時は輸入品の中国磁器が珍重され、有田のやきものはそのデザインを

模して供給不足を補っていたからです。

1640年代、中国王朝の交代に伴う内乱から磁器の輸出がストップすると、

有田のやきものは国内市場をおさえ急速に発展しました。

技術も磨かれ、ほどなくヨーロッパにまで輸出されるようになります。

こうして急発展した17世紀後半以降、桜の文様は数多くの器を彩るようになります。

つまりはその頃から、有田のやきものにおいても「国風(くにぶり)」が

好まれるようになったということなのでしょう。


「文・吉田さち子(学芸員)」

桜の文様

桜の文様

桜の文様

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2012.03.19 / Top↑